穏やかな眼差しの中で (仮題) 4

 MにYさんへの好意を打ち明けるのは、どこか清々しいものがあった。六年もの間、膨大に貯めてきた秘め事は大きな湖になり、その堰をMに開いてこころもち水を流してみたところ、導通にくすぐったさを覚えて次第に快楽となり、その水の勢いは自らとどまるところを知らなかった。僕はMの助言通りYさんと連絡を取り始め、心にくい彼女は僕との他愛もないやり取りに興じてくれ、彼女からの返り言が届くたびに僕は歓喜していたものだった。彼女とのやり取りの内容や、それを踏まえた性的な戯言のような妄言の数々を僕はMに披瀝し、それに対するMの無関心ながら幾分応援してくれているような反応がまた僕を喜ばせた。もとよりYさんとの具体的な性的妄想にふけることを能くはせず、Yさんという憧れの女性の像を常に追うのみであったこれまでとは一変し、MにYさんへの好意を話すようになってから、彼女へのぼんやりとした肉体的なあこがれが徐々に明瞭になるような心地がし、僕は以前の好意を乳臭いと愧じた。だがこの具体的な欲望が、Mを介在して初めて顕現するという事実に対しては全く無自覚であった。つまりはMに打ち明ける僕自身のYへの恋慕や性的妄想の一つ一つは、Mという存在があって初めて彩を豊かにし、そのMの影を孕んだ彩が僕をかつてないほどに喜ばせていたのだった。

 数々のメールの遣り取りの後、僕はついにYさんと一緒に下校することをとりつけ、校門を出てすぐの公園で待っていた。僕は彼女とのこれまでの遣り取りの中で、十分に彼女の心が僕に接近していると実感しており、その日のうちに好意を告げようと勇みだっていた。冬枯れの並木道の風は思いのほか寒すぎず、いまだ梅のつぼみは硬いものの、仄かに春が兆している夕空を背に、Yさんと家路につくことになったその途中で、僕はYさんに、話があるから近くの公園に寄らないかと持ち掛けたところ、Yさんも、私も話があると答え、僕はこの成就の期待を隠すことに努めるのに心地よいむず痒さを覚えていた。

 ――Yさんに話があるんだけど、俺、実はYさんのことがずっと好きで、小学校の時からずっと想ってきたんだ。もしよかったら、付き合ってほしい。

 僕は駆け抜けるように言ったが、用意してきた男らしい紋切り型の定型文に「もしよかったら」という躊躇いと譲歩の言葉を誤って付け足してしまった弱さを一瞬で悟った。彼女は少し考え込むようなしぐさをし、おもむろに僕をベンチへ座るよう促した。僕はその不格好さに照れ、彼女と並んで座った。木製のベンチは初春の陽に温くなっており、風の冷たさとの居心地の悪い隔たりがあった。Yさんとこうして並んで座るのはいつぶりだろうと考えながら、今にも話し出そうとするYさんの嘴のような口吻をぼんやりと眺めていた。

 ――好きって言ってくれて、ありがとう。実は私も伝えなきゃいけないことがあってね……今日はそのお話をしようと思って一緒に帰ることにしたんだけど、先越されちゃったな。あのね、本当にごめん、私、付き合ってる人がいるの。少し前からMくんと付き合っててね、だからせっかくのお気持ちには答えられない。

 僕はその時のYさんの顔のわびしそうな顔をありありと覚えている。Yさんは決して僕と眼を合わせようとはせず、その美しい横顔を昏れの地平から漏れ出る薄い陽の光が丁寧に縁どっていた。公園には僕ら二人しかいなかったが、僕は誰かに見られているような気がして、Yさんに平生を装って話した。僕は図らずも多弁になっていたように思う。

 ――そっか。それは知らなかったよ。こちらこそ、二人のことを何も知らずに突然告白したりしてごめんね。でも、周りの皆もまだ全然知らないよね、俺も上手に隠し通されちゃったな。Mも何も言わなかったんだから本当ふざけてるよな。今日はとにかく、二人が付き合ってるのを知れてよかったし、俺も伝えられてよかったよ。

 それからどのように言葉が交わされたかは記憶が定かではないが、僕はYさんを家まで送り、そこから僕の家に帰るまでにひたすらMのことを考えていたのは間違えなかった。路肩に停まった車の車内からの煙草の煙の匂いにMを嗅ぎ、夜風がやたらと僕を避けるように通るような気がして、そこに今後僕を敬遠するであろうMを見出し、二人乗りの自転車を見ればMが僕ではないYさんを荷台に乗せている光景を思い浮かべ、とにかく僕は何かにつけてMのことばかり考え、ひとたびMのことを思えば僕はいらだちというにも怒りというにもつかぬ、何か根源的な僕自身の業を針で刺されていながら麻酔されて痛みを感じないというような心地になり、僕はMの携帯電話に衝動的に電話をかけたのだった。今からカラオケへ行こうと誘ったら、Mは珍しく僕の家のことを心配し、早く帰らなくていいのか、と言った。僕はそれを聞いて、今日僕がYさんに振られたことをMは知っているのだと悟り、余計にMのことで頭がいっぱいになり、家のことなどどうでもいい、今から行こう、と強引に誘った。Mは不承不承に僕の要求をのみ、僕は先に入店し、Mが来るのを待った。いくぶん時がたってから、悪い、遅れた、とMは来た。いつものように怠惰に僕らは歌い始めたが、この日は異様にMの声が僕の耳の中を刺激し、Mの独特のにおいに吸い寄せられるような心地がし、僕は自分が普段と全く違う状態にあるのを自覚しながら、それを制すだけ無駄だと決めていたので、僕はMに甘えるつもりで歌っているMの腿に頭を乗せた。Mは驚いて歌をやめ、カラオケの爆音のどよめきにMの嫌がる声が微かに乗った。僕はMにそのまま抱きつき、涙を流しながらMにすがった。Mの股の間に鼻を押し当てると、甘酸っぱい匂いがしてより僕は感傷的になった。音楽が終わり、Mは僕に、おまえ酔ってるだろ、と言ったので、僕は、お酒は飲んだんだけどな、そんなに酔ってはないよ、と答えた。酒は飲んでいなかった。音楽が止んでもなお流れる広告の映像の音量を極限まで小さくしたMは、僕に言った。

 ――お前、今日Yと一緒に帰っただろ。それでYはお前に俺とYが付き合ってることを打ち明けたはずなんだけど、その件は本当に悪かった。俺がどこかでお前に言うべきだったけど、お前がYのことをあまりに嬉しそうに教えてくるもんだから、どう話したらいいかわからなかった。でもよくそんな状況で俺をカラオケに誘ったな。

 ――俺はYさんに振られてからずっとMのことばっか考えて、早く会わないと気がすまなくなってたんだ。でも怒ってるとか悲しいとかじゃなくって、それよりもMがこれを機に俺と気まずくなってつるめなくなるってのが嫌だった。それで不安になって強引に呼び出した。何言ってるんだろ、俺、酔ってるからきしょいこと言ってるんだよ、聞き流してくれ。

 ――あんまりべたべたするなよ。

 僕は慟哭しながらMのズボンを涙で濡らし、Mの匂いに全身が包まれて怒りのような気持が湧いては忽然とまた消えていた。その怒りの満ち引きの周期に頭がぐらつく思いのうちに、誰に対する怒りともつかぬが、これが性的な要望に根差した怒りであることには間違いないと僕はこの時自覚した。YさんよりもMの肉体が欲しいのだ、と冷静に知った僕は、やにわにMの腿から自分の体を起こし、ごめん、もう大丈夫だ、と言った。

 

(続く)