穏やかな眼差しの中で (仮題) 4

 MにYさんへの好意を打ち明けるのは、どこか清々しいものがあった。六年もの間、膨大に貯めてきた秘め事は大きな湖になり、その堰をMに開いてこころもち水を流してみたところ、導通にくすぐったさを覚えて次第に快楽となり、その水の勢いは自らとどまるところを知らなかった。僕はMの助言通りYさんと連絡を取り始め、心にくい彼女は僕との他愛もないやり取りに興じてくれ、彼女からの返り言が届くたびに僕は歓喜していたものだった。彼女とのやり取りの内容や、それを踏まえた性的な戯言のような妄言の数々を僕はMに披瀝し、それに対するMの無関心ながら幾分応援してくれているような反応がまた僕を喜ばせた。もとよりYさんとの具体的な性的妄想にふけることを能くはせず、Yさんという憧れの女性の像を常に追うのみであったこれまでとは一変し、MにYさんへの好意を話すようになってから、彼女へのぼんやりとした肉体的なあこがれが徐々に明瞭になるような心地がし、僕は以前の好意を乳臭いと愧じた。だがこの具体的な欲望が、Mを介在して初めて顕現するという事実に対しては全く無自覚であった。つまりはMに打ち明ける僕自身のYへの恋慕や性的妄想の一つ一つは、Mという存在があって初めて彩を豊かにし、そのMの影を孕んだ彩が僕をかつてないほどに喜ばせていたのだった。

 数々のメールの遣り取りの後、僕はついにYさんと一緒に下校することをとりつけ、校門を出てすぐの公園で待っていた。僕は彼女とのこれまでの遣り取りの中で、十分に彼女の心が僕に接近していると実感しており、その日のうちに好意を告げようと勇みだっていた。冬枯れの並木道の風は思いのほか寒すぎず、いまだ梅のつぼみは硬いものの、仄かに春が兆している夕空を背に、Yさんと家路につくことになったその途中で、僕はYさんに、話があるから近くの公園に寄らないかと持ち掛けたところ、Yさんも、私も話があると答え、僕はこの成就の期待を隠すことに努めるのに心地よいむず痒さを覚えていた。

 ――Yさんに話があるんだけど、俺、実はYさんのことがずっと好きで、小学校の時からずっと想ってきたんだ。もしよかったら、付き合ってほしい。

 僕は駆け抜けるように言ったが、用意してきた男らしい紋切り型の定型文に「もしよかったら」という躊躇いと譲歩の言葉を誤って付け足してしまった弱さを一瞬で悟った。彼女は少し考え込むようなしぐさをし、おもむろに僕をベンチへ座るよう促した。僕はその不格好さに照れ、彼女と並んで座った。木製のベンチは初春の陽に温くなっており、風の冷たさとの居心地の悪い隔たりがあった。Yさんとこうして並んで座るのはいつぶりだろうと考えながら、今にも話し出そうとするYさんの嘴のような口吻をぼんやりと眺めていた。

 ――好きって言ってくれて、ありがとう。実は私も伝えなきゃいけないことがあってね……今日はそのお話をしようと思って一緒に帰ることにしたんだけど、先越されちゃったな。あのね、本当にごめん、私、付き合ってる人がいるの。少し前からMくんと付き合っててね、だからせっかくのお気持ちには答えられない。

 僕はその時のYさんの顔のわびしそうな顔をありありと覚えている。Yさんは決して僕と眼を合わせようとはせず、その美しい横顔を昏れの地平から漏れ出る薄い陽の光が丁寧に縁どっていた。公園には僕ら二人しかいなかったが、僕は誰かに見られているような気がして、Yさんに平生を装って話した。僕は図らずも多弁になっていたように思う。

 ――そっか。それは知らなかったよ。こちらこそ、二人のことを何も知らずに突然告白したりしてごめんね。でも、周りの皆もまだ全然知らないよね、俺も上手に隠し通されちゃったな。Mも何も言わなかったんだから本当ふざけてるよな。今日はとにかく、二人が付き合ってるのを知れてよかったし、俺も伝えられてよかったよ。

 それからどのように言葉が交わされたかは記憶が定かではないが、僕はYさんを家まで送り、そこから僕の家に帰るまでにひたすらMのことを考えていたのは間違えなかった。路肩に停まった車の車内からの煙草の煙の匂いにMを嗅ぎ、夜風がやたらと僕を避けるように通るような気がして、そこに今後僕を敬遠するであろうMを見出し、二人乗りの自転車を見ればMが僕ではないYさんを荷台に乗せている光景を思い浮かべ、とにかく僕は何かにつけてMのことばかり考え、ひとたびMのことを思えば僕はいらだちというにも怒りというにもつかぬ、何か根源的な僕自身の業を針で刺されていながら麻酔されて痛みを感じないというような心地になり、僕はMの携帯電話に衝動的に電話をかけたのだった。今からカラオケへ行こうと誘ったら、Mは珍しく僕の家のことを心配し、早く帰らなくていいのか、と言った。僕はそれを聞いて、今日僕がYさんに振られたことをMは知っているのだと悟り、余計にMのことで頭がいっぱいになり、家のことなどどうでもいい、今から行こう、と強引に誘った。Mは不承不承に僕の要求をのみ、僕は先に入店し、Mが来るのを待った。いくぶん時がたってから、悪い、遅れた、とMは来た。いつものように怠惰に僕らは歌い始めたが、この日は異様にMの声が僕の耳の中を刺激し、Mの独特のにおいに吸い寄せられるような心地がし、僕は自分が普段と全く違う状態にあるのを自覚しながら、それを制すだけ無駄だと決めていたので、僕はMに甘えるつもりで歌っているMの腿に頭を乗せた。Mは驚いて歌をやめ、カラオケの爆音のどよめきにMの嫌がる声が微かに乗った。僕はMにそのまま抱きつき、涙を流しながらMにすがった。Mの股の間に鼻を押し当てると、甘酸っぱい匂いがしてより僕は感傷的になった。音楽が終わり、Mは僕に、おまえ酔ってるだろ、と言ったので、僕は、お酒は飲んだんだけどな、そんなに酔ってはないよ、と答えた。酒は飲んでいなかった。音楽が止んでもなお流れる広告の映像の音量を極限まで小さくしたMは、僕に言った。

 ――お前、今日Yと一緒に帰っただろ。それでYはお前に俺とYが付き合ってることを打ち明けたはずなんだけど、その件は本当に悪かった。俺がどこかでお前に言うべきだったけど、お前がYのことをあまりに嬉しそうに教えてくるもんだから、どう話したらいいかわからなかった。でもよくそんな状況で俺をカラオケに誘ったな。

 ――俺はYさんに振られてからずっとMのことばっか考えて、早く会わないと気がすまなくなってたんだ。でも怒ってるとか悲しいとかじゃなくって、それよりもMがこれを機に俺と気まずくなってつるめなくなるってのが嫌だった。それで不安になって強引に呼び出した。何言ってるんだろ、俺、酔ってるからきしょいこと言ってるんだよ、聞き流してくれ。

 ――あんまりべたべたするなよ。

 僕は慟哭しながらMのズボンを涙で濡らし、Mの匂いに全身が包まれて怒りのような気持が湧いては忽然とまた消えていた。その怒りの満ち引きの周期に頭がぐらつく思いのうちに、誰に対する怒りともつかぬが、これが性的な要望に根差した怒りであることには間違いないと僕はこの時自覚した。YさんよりもMの肉体が欲しいのだ、と冷静に知った僕は、やにわにMの腿から自分の体を起こし、ごめん、もう大丈夫だ、と言った。

 

(続く)

穏やかな眼差しの中で (仮題) 3

 この日以降、僕とMは親睦を急速に深めてゆく。バスケットボール部だったMも陸上部の不良少年に強いあこがれを抱くようになり、真面目な気質をある程度保った僕を追い越すようにして、Mは煙草や酒を嗜んだ。また彼とはヴィジュアル系の音楽の趣味を共有するようにもなり、団地の階段の踊り場で不良仲間とたむろしているときに、携帯電話から音楽を大音量で鳴らしたり、時にはカラオケ店まで歌いに行くこともあった。秋も深まり、街路に植わっている金木犀の甘やかな香りが昨夜来の雨に細く低く停滞していたある日、僕は特に何をする予定もなしにMの家に遊びに行った。建前上の予定は定期考査前の勉強ということだったが、その定期考査のおかげで部活が休止されているのを利用して、僕は勉強するつもりもなくMの家に上がり込んだ。試験内容は僕には易しかったので、特に勉強の必要はなかったのだった。Mの部屋では、学校で配布された資料が床に積み上げられており、彼がつゆも勉強をしていないものと見え、その隣には教科書が無造作に散乱しており、奥の棚に並べられている漫画が異様なほど端整に見えた。Mの部屋にはこれまで何度か上がっているが、その都度何か目的があるというわけではなく、漫画を読みながら取るに足らない会話をしたり、ゲームにふけったりするのだが、ほどなくして飽きると意味もなく床の上で寝て過ごしたりしていた。僕は、かつてMが男性向けアダルト雑誌を不良少年の先輩から譲り受けたと言っていたのをふと思い出し、そのありかを僕が問うてみれば、彼は――そんなに見たいの?とおもむろに顔をほころばせつつ、誇らしい表情をしたので、むしろそんなに僕に見せたかったのか、と僕は不思議がった。ほどなくして彼は押入れを開けその中に手を伸ばし、もったいぶるように隅を探って一冊の雑誌を取りだした。「優香の秘密」というタイトルが目に入る前に、そのシンプルな表紙に目を瞠った。その表紙には、中心に一枚の縦長のスナップショットが据えられており、それ以外の部分はあたかも背景のように白くくすんでいたのだが、そこにはもともと別の猥褻写真が並んでいたのが雨風にさらされることで風化して色が落ちたとのだと気がついた。中心のスナップショットには、これも幾分印刷が掠れていたのだが、全裸の女性がにこやかに笑いながら、心持ち足をいくぶん開いた状態で床に腰を下ろし、自らの右手で、毛がなく、内側が朱に染まった性器を広げている、そういった姿が写真に収められていた。全体的に印刷が掠れている分、広げられた性器の中の赤みがより強く現実的に感じられて、しばらくその微かに判別可能な構造に見入っていると、Mに頭を殴打された。ページを繰ろうとすると、一度濡れて硬化した紙が幾ページかくっついてしまっていたようで、今にも壊れそうな細い音を立てながら、折り目のくせが強く付いたページにたどり着いた。そこには表紙のスナップの拡大写真が綺麗な状態で掲載されており、会陰の構造が先ほどよりもずっと分明に見えた。女性の指によりおし広げられた燃えるような会陰の拡大写真は、僕の胃の中に大きな空隙を作り、その血の通わない虚無の空隙が少しずつ膨脹するような感覚を覚え、喉がつっかえそうになったので、僕は会陰から目をそらしたところで、女性の柔和な表情を認めて奇妙ないらだちに駆られた。気に入ったか、とMは僕に尋ね、これはエロすぎでしょ、と僕はとりなす。Mはどの写真が一番好きなの?と問うたら、Mはページを繰って僕に開いて見せた。あおむけにのけぞって苦悶とも恍惚ともいえぬ表情をする色白で細身な女性が寝台に乗せられており、口からはよだれを垂らしているようだ。手前にはモザイク処理のされた魁偉な陰茎が、瑞々しい女性器に押し当てられていた。会陰からはどちらのものとも判別せぬ白いぬめり気のある液体が垂れており(おそらく男性の精液であろう)、僕は自分自身がこの図を直視できないということに困惑しながらも、その理由は全くわからないでいたら、Mがこの写真が一番好きで、この写真に一番性的興奮をしているという事実が湧くように実感されて、そこで彼の顔を見れば、彼は恥ずかし気に大げさに瞬いて、僕から目をそらすようにしてから雑誌を閉じようとしたので、僕はそれを妨げると、そんなに気に入ったのか、と幸福に浸したような笑顔を泛べて僕をからかった。目は雑誌に向いているが、その焦点はもっと奥の、ともすれば家を超えたところに結んでいるかのようだった僕が彼を見返したら、彼はすでに床に寝そべりながら、無聊を託つようにして脚を掻いていた。彼がスウェットを穿いており、彼の陰茎の盛り上がりのシルエットが仄かに判るのに僕は気づき、彼が勃起をしているかどうかはわからない、むしろしていないだろうと予想しつつも、陰茎の実在が明らかなものと見えている小さな盛り上がりの部分を僕がつまむと、ばかやめろ、と彼は笑いながら僕をたしなめた。Mが興奮しているのかを確認したのだと僕は咄嗟にからかい、してないわと軽く流された。Mは完全には勃起していないようだったが、柔らかくもなかった彼の陰茎の感触はあの頃の僕には印象的で、僕はこの一連の流れを真の友情ゆえだと誤って確信していた。つまりは彼もふざけて僕の陰茎を狙ってくると期待していたのだが、それは当然起こらないのだった。僕は地に足のつかない気持ちで彼と同じように床に寝そべり、近くの本棚から漫画を取り出そうとしたら、僕は自分自身が勃起していることに気づき、急いで漫画を取ってうつ伏せた。その勃起に意味を見出すことは僕にはあまりに恐ろしく、取り出した漫画を読みもせずにページを行きつ戻りつし、ただ時間の過ぎるのを待っていれば、彼が今にも眠りにつきそうな声で、しかし半ば真面目な調子で、試験勉強しなきゃなあ、と言うので、いまさらそんなことして何になる、と僕は思ったけれども口にはせず、ううん、と返しにならないことを言ったところ、ふと、彼が万が一本当に試験勉強をする気になったらそんな退屈はないと思い、何か言葉を継ごうと思いめぐらしていたら、僕がYさんのことを好いていることを明かしてしまおうという思いが、雪解け水が湧くようにしてあふれてきた。Mに相談したいんだけど、と申し訳程度に話を整えるための前置きをして

 ――俺、実はさ、女バスのYさんのことが結構前から好きなんだけどさ、まあ、小二のときに同じクラスになったときから、なんかずっと好きだったんだよね。クラスなんて二回しか一緒になったことがなかったけど、クラスが変わってもずっと追ってしまうというか。これ、誰にも言ったことないから、秘密で頼むよ。

 ――いきなり何を言うかと思ったよ、そんなことだったのか。と彼は呆気にとられていた。お前がYさんが好きだろうが好きでなかろうが、俺は別に知らないよ。でもそんな前から好きでいながら、お前は一度も告白したことはないのか。

 ――M、結構冷たいこと言ってくれるじゃん。そう、これまであまり積極的な行動はしたことがないんだけど、さすがにあと一年で別の高校に行くわけだし、告白はしたいし、できればそれは付き合いたいよ。Yさんは、前の彼氏と別れてから今彼氏がいるって話は聞いたことないし、もっと仲良くなれればなあって。Mもバスケ部だし、Yさんと話すことも多いでしょ。

 ――そりゃ多いと言えば多いけど、どれくらい力になれるかは分からないよ。バスケ部でも男女でそんなに交流があるわけじゃないんだし、だってお前らそもそも帰る時間も全然違うじゃん。まずはメールのやりとりでも続けてみたらどうだ、お互い携帯は持ってるんだし。

 ――そうだな。メアドは知ってるし、メールを続けてみて、頃合いを見計らって二人で会ったり一緒に帰ったりできればまずは良いのかな。

 

(続く)

穏やかな眼差しの中で (仮題) 2

    第一章 鎧(よろい)  (仮題)

 

 今から考えると奇妙なことだが、幼少期の僕は女性に恋をし、女性の身体に憧れる性質(たち)だった。保育園にあずけられていた頃、つまり五歳の頃にはすでに同園の女児に特別な感情を抱いており、そっぽを向かれて落ち込んだことを今でも鮮明に思い出す。当時の僕は音楽の才能が人一倍あったようで、僕がお遊戯会で演奏する「きらきら星」のピアノ伴奏譜を自らより高度にアレンジし、周囲に驚かれたのだった。その伴奏の隣で主旋律を弾いていた子が、当時の意中の子であった。小学校に上がって彼女とは疎遠になると、別の女の子を好くようになる。特に小学二年の時に好きになったYさんには、それ以降何年もの間ずっとひそかに思いを寄せていた。女性に対して恋心を抱きながらも極度に晩稲(おくて)な僕は、常に迂遠な方法で彼女との接触を試みては、友達以上の関係にはなれないのだった。この頃僕は音楽の才覚をめきめきとのばし、クラシック音楽に一生を捧げる人生を夢見て日々ピアノの練習をしていたのだが、その夢想は中学校入学と同時に徐々に萎み、僕はより独自の世界を展開していった。この時代は、唯一母との自足関係が崩壊していた時代であった。僕は、第二次性徴と共に生じ始めた自己の肥大化を統御する能わず、家では僕の一方的で自分勝手な主張を健気に遮る母に対して「死ねクソババア」と放ってはよく母を泣かせ、姉と弟の顰蹙を買っていた。数年後にまた自足関係が恢復したのは、この時の猛省ゆえである。中学校に入ると、親の反対を押し切り陸上部に入部した。当時の陸上部は自由さ、緩さに定評があり、それゆえ真面目に練習をする者と怠ける者が完全に二分しており、在籍しているだけの不良少年も数多くいた。彼らは練習をなまけては団地の階段の踊り場で煙草を喫(の)んだり、カラオケ店で飲酒をしたり、河原で向かいの中学と喧嘩をしたりしており、僕はそんな彼らを心からカッコいいと思って憧れた。僕はそんな不良少年たちにかわいがられながらも、一方で部活の練習にも参加し、勉強の方も人並み以上にはでき、さして非行にも手を染められないという中途半端で都合の良い立場にいた。不良少年の中にはヴィジュアル系ロックバンドが好きなものがいて、僕はその露骨に性的な歌詞や、奇抜で派手な身なりに心酔した。得意なピアノも地道に続けていたが、僕はこの時ロックバンドの方がやりたいと願っていた。

 おそらくこれは生まれつきなのだろうが、僕の眼前には常に度のきつい分厚い眼鏡のような、圧倒的な自意識の塊が存在し、それは自己愛と自己嫌悪がまったく同相なものとして存在しうる環境を作り出す。自己愛からは常に自己嫌悪が一対一で形成され、その逆もまた然り、この両者間には常に安らかならざる絶え間のない往還がある。また、自己愛を見れば自己嫌悪は見えず、自己嫌悪を見れば自己愛は見ることができないので、ちょうどコインの表裏の関係のようだと今は得心しているが、当時はその表裏の往還のなすエネルギーの大きさにただただ翻弄されていたのだった。他者に投げかける僕の視線は、相手にごくわずかに入り込み、そこからまた二次的な視線として僕へと戻るようで、それが自意識の分厚い眼鏡を通してコインをぐるぐる回し、莫大なエネルギーを僕の中に産みだす。僕はそのエネルギーをもとに――時にそのエネルギーを母や友人に漏らしながら――、青春の日々を過ごした。今では付き合い方を了解している自意識だが、それが第二次性徴と共に芽ぐみだした少年期にあっては、僕はただただ翻弄されており、僕がこの時一人でヴィジュアル系かぶれの奇抜な服を着、派手なブーツを履き、髪の毛を異様に伸ばして、つまりは売れないロックバンドのような奇態な格好に凝っていたのは、きっかけこそ周囲の不良少年ではあったが、人に僕を見てほしい、見せつけたい、僕の破壊的な姿態を衆目にさらけだしたいという性的な願望があってのことだ。そのとき僕に帰ってくる自分の視線を愛し、かつは嫌っていたのだった。

 

 端を上向きに折り曲げた自転車の荷台に友人や彼女を乗せて走る「二ケツ」が流行していた時代だった。蟷螂風に長く湾曲したハンドルを握る僕の後ろの荷台に乗ったMが、彼のふかす煙草の煙の肌触りと匂いと共に懐かしく思い出される。Mとは中学二年に進級した際に同じクラスに割り当てられ、徐々に親しくなった。Mはすらりとした肢体で背が高く、しなやかな髪を持ち、体毛が薄く、老成すら感じさせる目じりの皺にはむしろ子供らしい純真さが永遠に刻まれており、何と言っても愛らしく優しい顔つきをした男だった。初夏に林間学校があり、そこで親睦を深めて以来、彼とは昵懇の仲だった。その林間学校の夜、クラスの男子の大半が寝静まった後に、備え付けの小さな燈を点けてMを含む数人で夜に密会のごとき猥談に興じた。燈の点いた一か所、その周りに半円状に密集した僕らは、二人で一つの布団を共有してうつ伏せていた。初夏とはいえども、標高の高い山中にある林間学校の夜は肌寒く、立て付けの悪さから隙間風が漏れる具合だったので、山の闇を濃くした匂いが僕らを取り巻いており、それにより僕らは得体のしれぬ不気味なおぞ気を感じるようにして、おのずと布団を共有していた。僕の隣にはMがいて、彼の吐く呼気がたびたび僕の首筋にあたるのを僕は感じながら、さして不快ではないくすぐったさを覚えていた。廊下に声が漏れて見回りの先生にばれてはまずいので、僕らは声を潜めて笑い合っていたのだが、会話が弾んだときのエネルギーを声に出せないからか、あるいは深い山から室内に夜が滲出してくる静かな音が聞こえてくるような不気味さを紛らわすためか、僕らは体をもじもじと揺らしながら、小さな燈の前に集まっており、僕は別段性的な意識もなく、いつものようにふざける具合にうつ伏せたMの上にうつ伏せで乗った。日焼けを始めたMの肌のすこし熟(な)れた匂いが僕の目をかすめて鼻に漂着したとき、Mは僕を揺り落そうとしたが、僕はMの肩を強く捉えて落とされるまいとしていたら、彼が体を回転させて横臥したので、僕は敷布団に叩きつけられ、大きな音がした。僕らは先生が叱りに来るのを即座に悟り、会話を中絶し、室内は突如寂莫(じゃくまく)に支配された。夜の山の無音の呼吸に押しつぶされそうになりながら、隣でMの心臓が拍動を刻み、Mの胸が膨らみまた萎むすべての過程が、僕の肌に濃密に貼り付いてゆくように感じられた。先生はいっこうに来なかったので、友人の一人が噴き出すと、皆安堵してもとの調子に戻った。――お前らがいちゃつくからだろ。マジでビビったよ、と友人の一人が嘲弄気味に笑えば、Mは即座に――いちゃついてなんかねえよ、こいつが一方的に、と受けた。僕が――ふざけんなよ、とMに訴えるように言えば、Mは――ふざけてるのはお前だろ、と少し嫌がった。その少し真面目な調子が僕には不愉快だったが、彼はそのあと自然にうちとけて笑い、もとの調子に戻ったので、僕は安堵していた。


(続く)

穏やかな眼差しの中で (仮題) 1

         

 森の匂いが山の向こうから運ばれてくる。頬にあたる冷たい風は僕に昔の記憶を呼び起こす。昔と言っても、それがどの程度昔であったか、あまりはっきりとはわからないほどに懐かしく、ぼんやりとしていて、それが今でも僕の体のどこかに澱として消化しきらないのを実感として持っている、そんな苦い気持ちを持ちながらも、僕は確かに充実した日々を送っており、現に今、眼下に広がる仙台の夜景は、今後幾たび見ても見飽きることはないだろう。友人が山形市から僕の住む仙台に遊びに来たので、彼を一日連れまわして、仙台を観光した。ディナーをこれから食べようとする前に、僕の愛する夜景を彼に紹介したくて、青葉山まで車を走らせた。その上から街を見下ろせば、高層ビルの炯々(けいけい)たる灯から靄が立ち昇って空に消える、その動的な瞬間を常に捉えることができるようで、世界がスロー動画に見えるのだった。僕は隣にいる友人の名前を知らない。彼を「ゆうくん」と呼ぶが、本名ではなさそうだ。彼がツイッターのハンドルネームを「ゆうき」にしているために僕は「ゆうくん」と呼ぶのであって、僕らの界隈には「ゆうき」という名前のアカウントが尋常なく多い。僕とゆうくんはツイッターで知り合い、好きなアーティストが同じなのもあり、話が弾んだ。僕がゆうくんの写真を初めて見たのは三か月前で、僕のフォロワーの一人がリツイートして拡散された彼の自撮りツイートが僕のタイムラインに上がってきた。僕はすぐさま反応し、ゆうくんをフォローをしたら、彼からもすぐにフォローが返ってきたので、僕はそれなりに喜んだ。彼がこれまでに投稿した写真はほとんど自撮りであり、その多くは巧妙に加工されており、誰が見ても魅力的に見えるようになっているのは、他の多くのフォロワーとなんら変わらなかった。彼と頻繁にやり取りをするようになり、その流れで休日に仙台に遊びに来るということで、僕は快諾し、彼と会った、といういきさつである。これまでに幾度となく繰り返したような流れにすぎず、今回はその相手がゆうくんだというだけである。もちろんゆうくんと過ごす一日が退屈だというわけではない。彼とは気が合うし、彼は程々に美男でもあるし、僕は彼ともっと過ごしたい、彼をもっと知りたいと思っていた。でももうそんな流れを幾人(いくたり)も幾人も繰り返しすぎてしまっていたのだろう、僕には些か男と男を継ぐ休息の間が必要なのかもしれないとも感じるが、しかしそれを思うだに寂しくて、僕には耐えられないようなのだ。僕は、僕たち男だけの世界に閉じこもるようになってから、その外での生活がもどかしく、物足りないように思えてならなかったからだ。

 ゆうくんは夜景にいたく満足してくれたようで、その後のディナーも和気藹々と明るい雰囲気の中で進み、彼は僕の家に泊まりたいと言い出した。僕は独りでアパートを借りているので、彼を泊めることはできたのだが、彼はもともとディナーの後に帰るという予定だった。しかし、それはどうやら僕が彼の期待外れだった時の逃げ道として設定しておいた予定で、今夜僕の家に泊まりたいというのは、いわばマッチング成立ということになる。このような例は時折あるのだが、僕は相手に失礼になると思っていたので、この作戦は取ったことがない。会うならば、相手が自分のタイプだと確信してから会いたい、とは思っている。しかし、予定外に泊まりたいと言われるのも、甘えられている気分で悪い気はせず、それもありなのか、と冷静に考えたりもした。

 翌朝もゆうくんは僕を求めてきた。ゆうくんは体を僕と逆向きに据えて、僕に覆いかぶさるようにして僕の陰茎を口で愛撫し、一方僕の目の前にはゆうくんの白い足の付け根があり、大きく反り返った彼の陰茎がちょうど僕の口に当てられていた。穂先から染み出る透明の蜜を吸いながら、足の付け根越しに、ベランダへ出る窓が結露しているのを認め、外の世界の厳しさに眩暈がした。そのさらに奥には向かいの家の屋根があり、窓からは見えない陽が、屋根を強く厳しく照らしていた。その日差しの厳しさに気づいたとき、僕は昨晩雪が降ったのを知った。

――ゆうくん、昨日の夜、雪が降ったみたいだよ。と僕が言うと、彼は急に僕への愛撫を止めたので、体の浮遊したような快楽の世界からぐっと引き戻され、厳しい外の世界に少し近づいてしまった気がして、些か後悔した。彼は僕と同じ向きに体を戻し、軽く窓を開いて外を見た。朝方の冷気が僕らの体の隙間に侵入した。

――屋根も真っ白だ。これが仙台の今年の初雪?僕は軽くうなずいた。

――仙台は山形より一週間以上遅いんだね。仙台でこれだけ降ったということは、あっちではもっと積もってるんだろうなあ。帰りが思いやられるよ。

 ゆうくんはこともなげに窓を閉め、僕らは互いの冷えた体を温めるように抱き合った。接吻をすれば忽ち勃起する僕たちは、ひとたび事を始めれば、互いに射精するまでベッドから出ることはないのだった。

 陽が高くなってもなおベッドで抱き合っていた僕らは、ようやく昼餉を二人で食べに行こうと話し合っていたのだが、その矢先、僕のスマホが鳴った。母からの電話だった。僕の姉が入籍したという報告だ。母は昂揚している。母が嬉しい時、その落ち着いた声の裏に現れる昂揚感を感じ取るのが僕は昔から好きだった。僕が県下一の進学校へ進学するとき、ピアノのコンクールで入賞するとき、課外活動で学校から表彰されるとき、つまり僕が誇りかなとき、母はいつも穏やかで、決して感情を露わにして喜ぶことはなかったが、その中でも普段とは決定的に違うある種の昂揚感が、その声には現れるのだった。僕はそれが好きでたまらなかったのだが、姉が結婚するという話で昂揚している母の声を、会ったばかりの男性と臥所で睦んでいるこの状態で聞くのはあまりにつらかった。僕も昂揚を装って言祝いだのち、願うようにして電話を終わらせた。スマホから音が漏れていたので、隣で裸のゆうくんにも内容が伝わったのだろう。ゆうくんは何も言わない。僕はスマホの電源を切り、かけ布団に潜ったのち、ゆうくんの胸の中にうずくまった。ゆうくんのほの温かい手が僕の背に回ったのを感じ、僕は歔欷した。しばらくの間、音もなくなおも泣いていて、布団の中に籠ったゆうくんの体の汗のにおいに咽て窒息しそうになった時、ふと僕は自分がまた勃起しているのに気づき、そんな自分がどこまでも嫌いになった。それでも僕は、これを僕なりの幸福だと思ってもいた。そう思うほかないのだった。

 

 それ以降のゆうくんとの関係はといえば、つかず離れずといった具合であろう。幸いお互いの家が近いので、時折ゆうくんの家にも遊びに行ったし、その際には当然のように一緒に寝た。ゆうくんの本名も知ることができ、案の定「ゆうき」とは似ても似つかぬ名前であった。さるにても、これだけ逢引きをしていながら恋愛関係になれないのは、相変わらずのことである。仮に彼が交際を申し込んだとしても、僕は受諾しかねるだろう。何かが違う、でもそれが何か明確にはわからずに、つねに男と男の曖昧な往還をしている。これまでに何度か男性との交際はしてきたが、最初の交際を除いてそこに実りがあったとは思えず、僕は男性との交際ということに対してあまりに冷徹に見すぎているきらいがあるのだろう、と思いめぐらせて、その気になって交際してみればまた「何かが違う」と別れてしまう。交際の破局は僕からとは限らず、相手が僕の倦怠を察して、これ以上の関係はやめよう、意味がない、と言われることもあった。もうあと二年で三十歳になる僕に、この頃母は頻りに結婚を催促するようになった。母は彼女さえ紹介しない僕を責めはしないものの、その声音はどこか寂し気で、僕が彼女を作ったと報告しさえすれば母はさぞ晴れやかになることだろう、という具合だった。それだけ僕への期待のハードルを低くしておきながら、その期待は母の胸の深奥でぐつぐつ煮えたぎっており、その熱を抑えんとする努力を母の声に見出す僕はやるかたなかった。

 僕と母の関係は、完璧な形をした抽象的な彫刻だった。一点の瑕疵だになく、ここの造形は手前の線の流れを受けたものだ、という具合に、全てを完璧に論理的に説明できるものだった。完璧な親子関係とは、このように見目美しく、無駄がなく、洗練され、自足したプロフェッショナルなものに違いないのだが、それだけに僕と母の間には素人的な交感がなかった。僕は常に母の期待通りの行動をし、母はそれを受けて自尊心を満たす。そして母が喜ぶ姿は僕にとって何よりの幸福だった。物心を覚えたころにはすでに母の無言の希望をおのずと推しはかるようになり、僕はそのようにして県下一の進学校に入学し、優秀な大学に向けて努力して合格し、大企業に入社した。僕はこの思考のもとで、彼女も作った。高校一年の頃、僕のことを明らかに好いてくれる女の子がいたので、頃合いを見計らって告白をした。半年たって性的なほのめかしを彼女からされるようになって、鬱陶しく感じて別れたが、初めての彼女との離別を母に伝えた時、母が僕を慰めるのは口先だけで、意外にも嬉しそうな顔をしたのを今でもよく覚えている。それは僕に失恋という人生経験をしてほしかったということなのだろう、またその経験を豊かで大切なものだと考えているということなのだろう、僕はのちにこう考えるようになり、いたく腑に落ちた。

 僕と母の長い自足関係には、僕のたえざる負の努力が必要であるのは言うもさらなり、僕は常に母を軽蔑しながら愛してきた。そして僕の軽蔑を母は知らず、むしろすべてが自分への愛の証だと捉えているようで、そんな母を僕はまた愛している、という入れ子状の愛があることにある時僕は気づいた。そのうえこの愛は母と僕の境を溶かすので、僕は母=僕が誰よりも好きで、同時に並々ならぬ母=僕へのコンプレックスを抱いているのだった。今、そんな僕を母は抱きとめてはくれないだろう。もし僕が母に彼氏を紹介などしてみれば、僕と母が一体となって自足した美しい彫刻はたちどころに消えてなくなるだろう。それもまた美しいことではないか、と夢想しながら、やはりそれは止そうと立ち止まって、思考はいつもここで止まる。今はもうないことだが、少年時代は男性を思い浮かべて自慰をすることに恐ろしい罪の意識を抱いており、射精してふと我に返ったときに僕は何度か自殺を試み、近くの集合住宅の高層階まで下から階段を上っている途中に不快感を催して引き返していた。いま思えばこの奇態な行動も、入れ子状の愛が突き動かしていたのだろう、と穏やかに懐かしく感じられるものだ。

 

 仕事が終わり、明日は休日なので、僕は静かに車を走らせている。さして夜は深まってはいないが、僕には夜があまりに濃すぎるように思われ、さらに家々から漏れる家庭的な燈や、両脇の街灯がさながら無数に散らばる蛍の小さな光のようで、心なしかそれに誘われるようにして、今夜も夜を滑っている。無論、友達に会うのだった。友達とは何度か会っており、彼とは同業者であるため、屈託なく愚痴をこぼし合ったり、意見交換をし合ったりするのがならいだったが、この日は彼が恋愛の相談をしたいと言って僕を呼んでよこした。僕は人の恋愛相談などは嫌いだったが、それ以上に彼と話がしたかった、そして人の肌を感じながら寝たかった。彼の家は確か、あの二つ向こうの大きな交差点を左に曲がって暫くしたところにあったな、そう考えながら信号待ちをしていると、僕はふと今いるここがかつての彼氏の家の近くだったことを悟り、しかしそれがどの彼氏だったかはわからずにぼんやりしているうちに信号が変わったのに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされた。僕がスマホでも見てると思ったのだろうか、とあてもなく考えながら、左折すべきところで左折をした。手汗をかいていることに気づき、気晴らしに窓を開けたら、どこか懐かしい、森のようないくぶん酸っぱい匂いがして、ふとある男の顔が浮かんだが、それはかつての彼氏ではなく、昔の大学時代の友人だった。彼の家がそういえばこの辺りにあったな、と妙に得心して窓を閉めれば、どうもやはり違うような気がして、外気の残り香が微かになり車内に僕の匂いが恢復するにつれ、記憶はより曖昧模糊なものとなり、えもいわれぬ苦みを帯びてくるようだ。

(続く)