穏やかな眼差しの中で (仮題) 1

         

 森の匂いが山の向こうから運ばれてくる。頬にあたる冷たい風は僕に昔の記憶を呼び起こす。昔と言っても、それがどの程度昔であったか、あまりはっきりとはわからないほどに懐かしく、ぼんやりとしていて、それが今でも僕の体のどこかに澱として消化しきらないのを実感として持っている、そんな苦い気持ちを持ちながらも、僕は確かに充実した日々を送っており、現に今、眼下に広がる仙台の夜景は、今後幾たび見ても見飽きることはないだろう。友人が山形市から僕の住む仙台に遊びに来たので、彼を一日連れまわして、仙台を観光した。ディナーをこれから食べようとする前に、僕の愛する夜景を彼に紹介したくて、青葉山まで車を走らせた。その上から街を見下ろせば、高層ビルの炯々(けいけい)たる灯から靄が立ち昇って空に消える、その動的な瞬間を常に捉えることができるようで、世界がスロー動画に見えるのだった。僕は隣にいる友人の名前を知らない。彼を「ゆうくん」と呼ぶが、本名ではなさそうだ。彼がツイッターのハンドルネームを「ゆうき」にしているために僕は「ゆうくん」と呼ぶのであって、僕らの界隈には「ゆうき」という名前のアカウントが尋常なく多い。僕とゆうくんはツイッターで知り合い、好きなアーティストが同じなのもあり、話が弾んだ。僕がゆうくんの写真を初めて見たのは三か月前で、僕のフォロワーの一人がリツイートして拡散された彼の自撮りツイートが僕のタイムラインに上がってきた。僕はすぐさま反応し、ゆうくんをフォローをしたら、彼からもすぐにフォローが返ってきたので、僕はそれなりに喜んだ。彼がこれまでに投稿した写真はほとんど自撮りであり、その多くは巧妙に加工されており、誰が見ても魅力的に見えるようになっているのは、他の多くのフォロワーとなんら変わらなかった。彼と頻繁にやり取りをするようになり、その流れで休日に仙台に遊びに来るということで、僕は快諾し、彼と会った、といういきさつである。これまでに幾度となく繰り返したような流れにすぎず、今回はその相手がゆうくんだというだけである。もちろんゆうくんと過ごす一日が退屈だというわけではない。彼とは気が合うし、彼は程々に美男でもあるし、僕は彼ともっと過ごしたい、彼をもっと知りたいと思っていた。でももうそんな流れを幾人(いくたり)も幾人も繰り返しすぎてしまっていたのだろう、僕には些か男と男を継ぐ休息の間が必要なのかもしれないとも感じるが、しかしそれを思うだに寂しくて、僕には耐えられないようなのだ。僕は、僕たち男だけの世界に閉じこもるようになってから、その外での生活がもどかしく、物足りないように思えてならなかったからだ。

 ゆうくんは夜景にいたく満足してくれたようで、その後のディナーも和気藹々と明るい雰囲気の中で進み、彼は僕の家に泊まりたいと言い出した。僕は独りでアパートを借りているので、彼を泊めることはできたのだが、彼はもともとディナーの後に帰るという予定だった。しかし、それはどうやら僕が彼の期待外れだった時の逃げ道として設定しておいた予定で、今夜僕の家に泊まりたいというのは、いわばマッチング成立ということになる。このような例は時折あるのだが、僕は相手に失礼になると思っていたので、この作戦は取ったことがない。会うならば、相手が自分のタイプだと確信してから会いたい、とは思っている。しかし、予定外に泊まりたいと言われるのも、甘えられている気分で悪い気はせず、それもありなのか、と冷静に考えたりもした。

 翌朝もゆうくんは僕を求めてきた。ゆうくんは体を僕と逆向きに据えて、僕に覆いかぶさるようにして僕の陰茎を口で愛撫し、一方僕の目の前にはゆうくんの白い足の付け根があり、大きく反り返った彼の陰茎がちょうど僕の口に当てられていた。穂先から染み出る透明の蜜を吸いながら、足の付け根越しに、ベランダへ出る窓が結露しているのを認め、外の世界の厳しさに眩暈がした。そのさらに奥には向かいの家の屋根があり、窓からは見えない陽が、屋根を強く厳しく照らしていた。その日差しの厳しさに気づいたとき、僕は昨晩雪が降ったのを知った。

――ゆうくん、昨日の夜、雪が降ったみたいだよ。と僕が言うと、彼は急に僕への愛撫を止めたので、体の浮遊したような快楽の世界からぐっと引き戻され、厳しい外の世界に少し近づいてしまった気がして、些か後悔した。彼は僕と同じ向きに体を戻し、軽く窓を開いて外を見た。朝方の冷気が僕らの体の隙間に侵入した。

――屋根も真っ白だ。これが仙台の今年の初雪?僕は軽くうなずいた。

――仙台は山形より一週間以上遅いんだね。仙台でこれだけ降ったということは、あっちではもっと積もってるんだろうなあ。帰りが思いやられるよ。

 ゆうくんはこともなげに窓を閉め、僕らは互いの冷えた体を温めるように抱き合った。接吻をすれば忽ち勃起する僕たちは、ひとたび事を始めれば、互いに射精するまでベッドから出ることはないのだった。

 陽が高くなってもなおベッドで抱き合っていた僕らは、ようやく昼餉を二人で食べに行こうと話し合っていたのだが、その矢先、僕のスマホが鳴った。母からの電話だった。僕の姉が入籍したという報告だ。母は昂揚している。母が嬉しい時、その落ち着いた声の裏に現れる昂揚感を感じ取るのが僕は昔から好きだった。僕が県下一の進学校へ進学するとき、ピアノのコンクールで入賞するとき、課外活動で学校から表彰されるとき、つまり僕が誇りかなとき、母はいつも穏やかで、決して感情を露わにして喜ぶことはなかったが、その中でも普段とは決定的に違うある種の昂揚感が、その声には現れるのだった。僕はそれが好きでたまらなかったのだが、姉が結婚するという話で昂揚している母の声を、会ったばかりの男性と臥所で睦んでいるこの状態で聞くのはあまりにつらかった。僕も昂揚を装って言祝いだのち、願うようにして電話を終わらせた。スマホから音が漏れていたので、隣で裸のゆうくんにも内容が伝わったのだろう。ゆうくんは何も言わない。僕はスマホの電源を切り、かけ布団に潜ったのち、ゆうくんの胸の中にうずくまった。ゆうくんのほの温かい手が僕の背に回ったのを感じ、僕は歔欷した。しばらくの間、音もなくなおも泣いていて、布団の中に籠ったゆうくんの体の汗のにおいに咽て窒息しそうになった時、ふと僕は自分がまた勃起しているのに気づき、そんな自分がどこまでも嫌いになった。それでも僕は、これを僕なりの幸福だと思ってもいた。そう思うほかないのだった。

 

 それ以降のゆうくんとの関係はといえば、つかず離れずといった具合であろう。幸いお互いの家が近いので、時折ゆうくんの家にも遊びに行ったし、その際には当然のように一緒に寝た。ゆうくんの本名も知ることができ、案の定「ゆうき」とは似ても似つかぬ名前であった。さるにても、これだけ逢引きをしていながら恋愛関係になれないのは、相変わらずのことである。仮に彼が交際を申し込んだとしても、僕は受諾しかねるだろう。何かが違う、でもそれが何か明確にはわからずに、つねに男と男の曖昧な往還をしている。これまでに何度か男性との交際はしてきたが、最初の交際を除いてそこに実りがあったとは思えず、僕は男性との交際ということに対してあまりに冷徹に見すぎているきらいがあるのだろう、と思いめぐらせて、その気になって交際してみればまた「何かが違う」と別れてしまう。交際の破局は僕からとは限らず、相手が僕の倦怠を察して、これ以上の関係はやめよう、意味がない、と言われることもあった。もうあと二年で三十歳になる僕に、この頃母は頻りに結婚を催促するようになった。母は彼女さえ紹介しない僕を責めはしないものの、その声音はどこか寂し気で、僕が彼女を作ったと報告しさえすれば母はさぞ晴れやかになることだろう、という具合だった。それだけ僕への期待のハードルを低くしておきながら、その期待は母の胸の深奥でぐつぐつ煮えたぎっており、その熱を抑えんとする努力を母の声に見出す僕はやるかたなかった。

 僕と母の関係は、完璧な形をした抽象的な彫刻だった。一点の瑕疵だになく、ここの造形は手前の線の流れを受けたものだ、という具合に、全てを完璧に論理的に説明できるものだった。完璧な親子関係とは、このように見目美しく、無駄がなく、洗練され、自足したプロフェッショナルなものに違いないのだが、それだけに僕と母の間には素人的な交感がなかった。僕は常に母の期待通りの行動をし、母はそれを受けて自尊心を満たす。そして母が喜ぶ姿は僕にとって何よりの幸福だった。物心を覚えたころにはすでに母の無言の希望をおのずと推しはかるようになり、僕はそのようにして県下一の進学校に入学し、優秀な大学に向けて努力して合格し、大企業に入社した。僕はこの思考のもとで、彼女も作った。高校一年の頃、僕のことを明らかに好いてくれる女の子がいたので、頃合いを見計らって告白をした。半年たって性的なほのめかしを彼女からされるようになって、鬱陶しく感じて別れたが、初めての彼女との離別を母に伝えた時、母が僕を慰めるのは口先だけで、意外にも嬉しそうな顔をしたのを今でもよく覚えている。それは僕に失恋という人生経験をしてほしかったということなのだろう、またその経験を豊かで大切なものだと考えているということなのだろう、僕はのちにこう考えるようになり、いたく腑に落ちた。

 僕と母の長い自足関係には、僕のたえざる負の努力が必要であるのは言うもさらなり、僕は常に母を軽蔑しながら愛してきた。そして僕の軽蔑を母は知らず、むしろすべてが自分への愛の証だと捉えているようで、そんな母を僕はまた愛している、という入れ子状の愛があることにある時僕は気づいた。そのうえこの愛は母と僕の境を溶かすので、僕は母=僕が誰よりも好きで、同時に並々ならぬ母=僕へのコンプレックスを抱いているのだった。今、そんな僕を母は抱きとめてはくれないだろう。もし僕が母に彼氏を紹介などしてみれば、僕と母が一体となって自足した美しい彫刻はたちどころに消えてなくなるだろう。それもまた美しいことではないか、と夢想しながら、やはりそれは止そうと立ち止まって、思考はいつもここで止まる。今はもうないことだが、少年時代は男性を思い浮かべて自慰をすることに恐ろしい罪の意識を抱いており、射精してふと我に返ったときに僕は何度か自殺を試み、近くの集合住宅の高層階まで下から階段を上っている途中に不快感を催して引き返していた。いま思えばこの奇態な行動も、入れ子状の愛が突き動かしていたのだろう、と穏やかに懐かしく感じられるものだ。

 

 仕事が終わり、明日は休日なので、僕は静かに車を走らせている。さして夜は深まってはいないが、僕には夜があまりに濃すぎるように思われ、さらに家々から漏れる家庭的な燈や、両脇の街灯がさながら無数に散らばる蛍の小さな光のようで、心なしかそれに誘われるようにして、今夜も夜を滑っている。無論、友達に会うのだった。友達とは何度か会っており、彼とは同業者であるため、屈託なく愚痴をこぼし合ったり、意見交換をし合ったりするのがならいだったが、この日は彼が恋愛の相談をしたいと言って僕を呼んでよこした。僕は人の恋愛相談などは嫌いだったが、それ以上に彼と話がしたかった、そして人の肌を感じながら寝たかった。彼の家は確か、あの二つ向こうの大きな交差点を左に曲がって暫くしたところにあったな、そう考えながら信号待ちをしていると、僕はふと今いるここがかつての彼氏の家の近くだったことを悟り、しかしそれがどの彼氏だったかはわからずにぼんやりしているうちに信号が変わったのに気づかず、後ろからクラクションを鳴らされた。僕がスマホでも見てると思ったのだろうか、とあてもなく考えながら、左折すべきところで左折をした。手汗をかいていることに気づき、気晴らしに窓を開けたら、どこか懐かしい、森のようないくぶん酸っぱい匂いがして、ふとある男の顔が浮かんだが、それはかつての彼氏ではなく、昔の大学時代の友人だった。彼の家がそういえばこの辺りにあったな、と妙に得心して窓を閉めれば、どうもやはり違うような気がして、外気の残り香が微かになり車内に僕の匂いが恢復するにつれ、記憶はより曖昧模糊なものとなり、えもいわれぬ苦みを帯びてくるようだ。

(続く)