穏やかな眼差しの中で (仮題) 2

    第一章 鎧(よろい)  (仮題)

 

 今から考えると奇妙なことだが、幼少期の僕は女性に恋をし、女性の身体に憧れる性質(たち)だった。保育園にあずけられていた頃、つまり五歳の頃にはすでに同園の女児に特別な感情を抱いており、そっぽを向かれて落ち込んだことを今でも鮮明に思い出す。当時の僕は音楽の才能が人一倍あったようで、僕がお遊戯会で演奏する「きらきら星」のピアノ伴奏譜を自らより高度にアレンジし、周囲に驚かれたのだった。その伴奏の隣で主旋律を弾いていた子が、当時の意中の子であった。小学校に上がって彼女とは疎遠になると、別の女の子を好くようになる。特に小学二年の時に好きになったYさんには、それ以降何年もの間ずっとひそかに思いを寄せていた。女性に対して恋心を抱きながらも極度に晩稲(おくて)な僕は、常に迂遠な方法で彼女との接触を試みては、友達以上の関係にはなれないのだった。この頃僕は音楽の才覚をめきめきとのばし、クラシック音楽に一生を捧げる人生を夢見て日々ピアノの練習をしていたのだが、その夢想は中学校入学と同時に徐々に萎み、僕はより独自の世界を展開していった。この時代は、唯一母との自足関係が崩壊していた時代であった。僕は、第二次性徴と共に生じ始めた自己の肥大化を統御する能わず、家では僕の一方的で自分勝手な主張を健気に遮る母に対して「死ねクソババア」と放ってはよく母を泣かせ、姉と弟の顰蹙を買っていた。数年後にまた自足関係が恢復したのは、この時の猛省ゆえである。中学校に入ると、親の反対を押し切り陸上部に入部した。当時の陸上部は自由さ、緩さに定評があり、それゆえ真面目に練習をする者と怠ける者が完全に二分しており、在籍しているだけの不良少年も数多くいた。彼らは練習をなまけては団地の階段の踊り場で煙草を喫(の)んだり、カラオケ店で飲酒をしたり、河原で向かいの中学と喧嘩をしたりしており、僕はそんな彼らを心からカッコいいと思って憧れた。僕はそんな不良少年たちにかわいがられながらも、一方で部活の練習にも参加し、勉強の方も人並み以上にはでき、さして非行にも手を染められないという中途半端で都合の良い立場にいた。不良少年の中にはヴィジュアル系ロックバンドが好きなものがいて、僕はその露骨に性的な歌詞や、奇抜で派手な身なりに心酔した。得意なピアノも地道に続けていたが、僕はこの時ロックバンドの方がやりたいと願っていた。

 おそらくこれは生まれつきなのだろうが、僕の眼前には常に度のきつい分厚い眼鏡のような、圧倒的な自意識の塊が存在し、それは自己愛と自己嫌悪がまったく同相なものとして存在しうる環境を作り出す。自己愛からは常に自己嫌悪が一対一で形成され、その逆もまた然り、この両者間には常に安らかならざる絶え間のない往還がある。また、自己愛を見れば自己嫌悪は見えず、自己嫌悪を見れば自己愛は見ることができないので、ちょうどコインの表裏の関係のようだと今は得心しているが、当時はその表裏の往還のなすエネルギーの大きさにただただ翻弄されていたのだった。他者に投げかける僕の視線は、相手にごくわずかに入り込み、そこからまた二次的な視線として僕へと戻るようで、それが自意識の分厚い眼鏡を通してコインをぐるぐる回し、莫大なエネルギーを僕の中に産みだす。僕はそのエネルギーをもとに――時にそのエネルギーを母や友人に漏らしながら――、青春の日々を過ごした。今では付き合い方を了解している自意識だが、それが第二次性徴と共に芽ぐみだした少年期にあっては、僕はただただ翻弄されており、僕がこの時一人でヴィジュアル系かぶれの奇抜な服を着、派手なブーツを履き、髪の毛を異様に伸ばして、つまりは売れないロックバンドのような奇態な格好に凝っていたのは、きっかけこそ周囲の不良少年ではあったが、人に僕を見てほしい、見せつけたい、僕の破壊的な姿態を衆目にさらけだしたいという性的な願望があってのことだ。そのとき僕に帰ってくる自分の視線を愛し、かつは嫌っていたのだった。

 

 端を上向きに折り曲げた自転車の荷台に友人や彼女を乗せて走る「二ケツ」が流行していた時代だった。蟷螂風に長く湾曲したハンドルを握る僕の後ろの荷台に乗ったMが、彼のふかす煙草の煙の肌触りと匂いと共に懐かしく思い出される。Mとは中学二年に進級した際に同じクラスに割り当てられ、徐々に親しくなった。Mはすらりとした肢体で背が高く、しなやかな髪を持ち、体毛が薄く、老成すら感じさせる目じりの皺にはむしろ子供らしい純真さが永遠に刻まれており、何と言っても愛らしく優しい顔つきをした男だった。初夏に林間学校があり、そこで親睦を深めて以来、彼とは昵懇の仲だった。その林間学校の夜、クラスの男子の大半が寝静まった後に、備え付けの小さな燈を点けてMを含む数人で夜に密会のごとき猥談に興じた。燈の点いた一か所、その周りに半円状に密集した僕らは、二人で一つの布団を共有してうつ伏せていた。初夏とはいえども、標高の高い山中にある林間学校の夜は肌寒く、立て付けの悪さから隙間風が漏れる具合だったので、山の闇を濃くした匂いが僕らを取り巻いており、それにより僕らは得体のしれぬ不気味なおぞ気を感じるようにして、おのずと布団を共有していた。僕の隣にはMがいて、彼の吐く呼気がたびたび僕の首筋にあたるのを僕は感じながら、さして不快ではないくすぐったさを覚えていた。廊下に声が漏れて見回りの先生にばれてはまずいので、僕らは声を潜めて笑い合っていたのだが、会話が弾んだときのエネルギーを声に出せないからか、あるいは深い山から室内に夜が滲出してくる静かな音が聞こえてくるような不気味さを紛らわすためか、僕らは体をもじもじと揺らしながら、小さな燈の前に集まっており、僕は別段性的な意識もなく、いつものようにふざける具合にうつ伏せたMの上にうつ伏せで乗った。日焼けを始めたMの肌のすこし熟(な)れた匂いが僕の目をかすめて鼻に漂着したとき、Mは僕を揺り落そうとしたが、僕はMの肩を強く捉えて落とされるまいとしていたら、彼が体を回転させて横臥したので、僕は敷布団に叩きつけられ、大きな音がした。僕らは先生が叱りに来るのを即座に悟り、会話を中絶し、室内は突如寂莫(じゃくまく)に支配された。夜の山の無音の呼吸に押しつぶされそうになりながら、隣でMの心臓が拍動を刻み、Mの胸が膨らみまた萎むすべての過程が、僕の肌に濃密に貼り付いてゆくように感じられた。先生はいっこうに来なかったので、友人の一人が噴き出すと、皆安堵してもとの調子に戻った。――お前らがいちゃつくからだろ。マジでビビったよ、と友人の一人が嘲弄気味に笑えば、Mは即座に――いちゃついてなんかねえよ、こいつが一方的に、と受けた。僕が――ふざけんなよ、とMに訴えるように言えば、Mは――ふざけてるのはお前だろ、と少し嫌がった。その少し真面目な調子が僕には不愉快だったが、彼はそのあと自然にうちとけて笑い、もとの調子に戻ったので、僕は安堵していた。


(続く)